果ての果てのハテナ

自分の気持ちを整理するために綴ります。どうぞよろしく。

社会勉強ってなんだろう?

  最近、社会勉強とは何か、と考えることがある。わたしもいつしか働かないといけない時が来る。わたしはそれが怖い。

  はじめてバイトをしてみた時、わたしはひどく無能であったと自覚している。このことから、飲食店の接客業には向いていないとおもった。見ず知らずの大勢の人間と話すことは、わたしに恐怖をもたらしたのである。知らない人に話しかけることほど、緊張するものはない。たしかに、ある程度の緊張感は必要だとおもう。しかし、わたしはそれが過度であったのだ。一瞬一瞬の行為に責任が伴うことが、苦痛で仕方なかった。

「このままじゃ社会でやっていけないよ」といわれたことがある。かれのことばには、善意など微塵も感じられなかった。自分を優位に見せようとする……そんなものであった。そういう人が認められているところで働く意義はあるのか?と考えて、わたしはバイト先を辞めた。辞める予定の1ヶ月前に申し上げたのだが、そのことをいった月で辞めることになった。事実上のクビである。かれのいう社会とはなんであったろうか。それはついぞわからないままであった。

  いまは、頼まれて選挙ボランティアをやっている。  名刺管理やハガキの集計などをしたり、お茶汲みをやったりする。スタッフさんや他のボランティアさんとの関わりも良好で、かつてのバイトよりも楽しいとおもう。たしかに責任感は伴うのだが、お金が絡まないと、こんなに要求される能力も少ないのか!とおもう。これほど嬉しいことはない。選挙が近づくにつれて、要求されるものも増えるだろうが、最後までやり抜くことができると確信している。

  このことを鑑みると、わたしはひとり黙々となにかをすることが向いているのではないかとおもう。無論人と話すことはできるが、3人以上になると驚くほど無口になるといわれている。誰しもそうであろうか。「自分で考えて?わかるじゃん!」「なんで訊かなかったの?わからないでしょ!」とダブルバインドされたことがあり、こういうところは難しいのだろう。しかし、それが社会という場所なのだろうか?

  丹羽宇一郎氏の「死ぬほど読書」によれば、「教養を支えるのは読書と仕事と人」であるそうだ。人は、仕事を経なければ、成長できない、ということだろう。たしかにそうであろう。ひとつの職場に固執していると、経営者の目線になってしまうのだろうか。そういうことを考えると、わたしは不安で顔が青ざめていくのを感じた。

  中高時代、ボランティアは偽善者がするものだとおもっていた。すなわち、内申目当ての……受験先に媚びを売るためのものではないかと。就職活動にしたってそうだ。海外でボランティアをする人などありふれていると聞いている。大学生になって、ボランティアやってみよう!と考えたが、特技がなかったので、不合格になってしまった。悲しんでいたときに、主催している先生に「草の根国際協力プログラム(通称:GONGOVA)」の2017-Xプロジェクトを勧めていただいた。実際に参加した。そのことについては、後に書こうとおもう。