果ての果てのハテナ

自分の気持ちを整理するために綴ります。どうぞよろしく。

選挙ボランティアのススメ

選挙ボランティアをする。

それで何も書かずじまいだった。兼好法師のようにはいかず、徒然に書くことはできない。

タイピングの進みが遅いのは、仕方のないことのようにおもう。

政治というと、宗教に似て、あまり話題にすべきではないように感じる。だから、最低限のことだけを述べたいとおもう。

わたしが行ったのは、選挙ハガキの集計が主である。それから駅頭でのビラ配りや電話作戦などをする。桃太郎と呼ばれる、練り歩く凱旋活動で、写真を撮ったりした。

選挙ボランティアをしてみて気がついたのは、人との関わりが増えることである。政治に詳しい秘書さんもいて、その人とお話ししたこともある。

わたしが支持した候補は、当選した。その時の嬉しさは格別である。そういうときに、選挙は楽しい!と感じるらしい。選挙が好きだなんて、政治屋じゃん、なんておもったりするが、政治家には政治家なりの楽しみというものがあるだろう。

わたしはコネクションを使って選挙ボランティアに行ったが、実際は支持したいという気持ちがあればなんだって出来るのではないかとおもう。

大学生で選挙に携わる人は少ないという。たしかに。遊び盛りの春休みだもの。サークルの新歓でやることもあるだろうし。ただ、政治の世界を少し覗き見たようで、おもしろかった。

ほとんどの秘書さんが優しかったことが良かったのかもしれない。

ただ、わたしは電話が苦手だ。〈顔〉が見えないことは、恐ろしいことではないか?しかし、嫌々ながらもやってくれる心強い人が存在する。わたしの妹である。

妹はすごい。ウグイス嬢だって、電話作戦だって、ビラ配りだってする。そういうところは祖母譲りで、外面が良すぎると家族にいわれている。本を読まないが、実学に強いということなのだろう。羨ましい。それは、隣の芝が青いのか?なんて考えるが、実際はどっちも一長一短あるのではないかとおもう。比較優位?

わたしは学校があるので、選挙の結果を事務所で見たっきりもう行っていない。必要ないだろうとおもう。不器用なのだ。

ボランティアで、お金が絡まないから、みんな優しかった。お金になると、人は怖くなる。責任が孕んでいるので、怖くなるのだ。

これを読んでいるかたも、いちど選挙事務所に行ってみることをオススメする。きっと、三、四年後になってしまうでしょうが。

読書ってほんとうに必要なの?

  趣味は読書です、ということがある。しかし、ほんとうに読んでいるかといわれれば、甚だ疑問になるのではなかろうか。

  わたしの中学時分の友人が、instagramに自分の読んだ本を投稿していた。わたしはそれを見て、顔が恥じらいで真っ赤になりそうだった。自分も同じようなことをしていた時期があったからである。オントが身体中を包み込むので、穴があったら入りたい気持ちに襲われた。たしかに、自己顕示欲のために本を読むのは、悪くはないかもしれない。しかし、映された人間にしてみれば、不快なことであるとおもう。中学時分からの親友の1人は、かれをミュートにしているそうだ。機械音痴に近しいわたしは、ミュートの仕方がわからないので、件の友人の行為と発言にいやいや傾けるしかないようだった。いわば電子的虐待である。それが嫌ならば、なぜ調べたりしないのだろうか?それは、かの友人を嘲るためのようにおもう。嫌なことだとわかっていながら、こころのどこかにそれを面白いと笑う存在がわたしにはあるのだった。わたしにも蛇のような粘っこい感性があるのだ。本を読んでいるというのに、紹介するのはベストセラーの読みやすいビジネス書ばかりで、偏っていることがいけないようにおもう。

  わたしはいわゆる「搔い撫で(かいなで)」あるいは「スノッブ」である。つまり、表面的にしか物事を見ることができないでいるのだ。友人に対して恥じらいを認めるわたしもまた、誰かに嘲笑されているのだろう。

  そう考えると、果たして、読書というものはほんとうに必要なのか?と考えることがある。

  

社会勉強ってなんだろう?

  最近、社会勉強とは何か、と考えることがある。わたしもいつしか働かないといけない時が来る。わたしはそれが怖い。

  はじめてバイトをしてみた時、わたしはひどく無能であったと自覚している。このことから、飲食店の接客業には向いていないとおもった。見ず知らずの大勢の人間と話すことは、わたしに恐怖をもたらしたのである。知らない人に話しかけることほど、緊張するものはない。たしかに、ある程度の緊張感は必要だとおもう。しかし、わたしはそれが過度であったのだ。一瞬一瞬の行為に責任が伴うことが、苦痛で仕方なかった。

「このままじゃ社会でやっていけないよ」といわれたことがある。かれのことばには、善意など微塵も感じられなかった。自分を優位に見せようとする……そんなものであった。そういう人が認められているところで働く意義はあるのか?と考えて、わたしはバイト先を辞めた。辞める予定の1ヶ月前に申し上げたのだが、そのことをいった月で辞めることになった。事実上のクビである。かれのいう社会とはなんであったろうか。それはついぞわからないままであった。

  いまは、頼まれて選挙ボランティアをやっている。  名刺管理やハガキの集計などをしたり、お茶汲みをやったりする。スタッフさんや他のボランティアさんとの関わりも良好で、かつてのバイトよりも楽しいとおもう。たしかに責任感は伴うのだが、お金が絡まないと、こんなに要求される能力も少ないのか!とおもう。これほど嬉しいことはない。選挙が近づくにつれて、要求されるものも増えるだろうが、最後までやり抜くことができると確信している。

  このことを鑑みると、わたしはひとり黙々となにかをすることが向いているのではないかとおもう。無論人と話すことはできるが、3人以上になると驚くほど無口になるといわれている。誰しもそうであろうか。「自分で考えて?わかるじゃん!」「なんで訊かなかったの?わからないでしょ!」とダブルバインドされたことがあり、こういうところは難しいのだろう。しかし、それが社会という場所なのだろうか?

  丹羽宇一郎氏の「死ぬほど読書」によれば、「教養を支えるのは読書と仕事と人」であるそうだ。人は、仕事を経なければ、成長できない、ということだろう。たしかにそうであろう。ひとつの職場に固執していると、経営者の目線になってしまうのだろうか。そういうことを考えると、わたしは不安で顔が青ざめていくのを感じた。

  中高時代、ボランティアは偽善者がするものだとおもっていた。すなわち、内申目当ての……受験先に媚びを売るためのものではないかと。就職活動にしたってそうだ。海外でボランティアをする人などありふれていると聞いている。大学生になって、ボランティアやってみよう!と考えたが、特技がなかったので、不合格になってしまった。悲しんでいたときに、主催している先生に「草の根国際協力プログラム(通称:GONGOVA)」の2017-Xプロジェクトを勧めていただいた。実際に参加した。そのことについては、後に書こうとおもう。